カミさんが片づけをしていて出てきた「八重山上布(やえやまじょうふ)」。
義父(2005年死去)が何十年か前に買って帰ったもののようだが、一時代前の品にもかかわらず傷みもなく、その素朴さから感じるただものではない美しさに思わず心が動かされた。
調べてみると、大変な工程を経て作られる布のよう。時の経過や、新たな技術がこのような地物の歴史・文化を簡単に廃れさせてしまうのは進歩と言えるんだろうか。思わず宮本常一を思い出した。
(引用:宮本常一「民俗学の旅(1978)」から)
私は長いあいだ歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか、発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。 進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらがにぶっているように思うことが多い。 多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。しかもなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。……これからさきも人間は長い道を歩いてゆかなければならないが、何が進歩であるのかということへの反省はたえずなされなければならないのではないかと思っている。
これは宮本氏が亡くなる2年前の書かれた回想的な文章。淡々とした文章の中に強い思いが込められている。
今の世の中、情報氾濫、技術進歩の中で、社会の混沌、分断、争いが続く。これは進歩の過程なのか、崩壊の過程なのか。危うさを感じる。歴史、文化を背負って積み重ねられた経験、考え方を一見正当そうに見える技術革新によって刷新し捨ててしまう選択に危うさを感じる。その葛藤の中に人知がある(科学技術の進歩否定ではありません)。
いまの社会、とかく人間は自力で生きにくくなった?
AI技術もいいけど私のベースである自分の足元、魂の思いを見失わないように考えていきたい。
子孫には青い地球を残したい。自分という人間をあてにして生きていこうと思い新たにしたところ。
近頃感じている漠然としたわだかまりにあらがおうとするあまり、ちょっと力んでしまったかもなあ。
でも、ちょっと本気になったら誰だって、私って何? と考えるもんだと思うね。
エビネは気温が高めだが曇天気味なので、内張の寒冷紗を巻き取ってみた。だいぶ明るくなった。
それにしても台風が発達しながらこちらの方に近づいてきている。こりゃ風の防御も必要だな。 ヒエ~~ッ